昭和50年03月30日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労してお るから長う散らぬ。」
私共は自分の欠点、欠陥というものを知る事によって、そこに心を止める事が出来る、留意する事が出来る。いつもそこの所に、気を付けさせて頂く事が出来る。はぁ自分はここが欠けている。自分はここの所では、こんな事ではおかげを受けられないと言った様なものを知ると言う事。ですからそこの所が大事にされるわけであります。合楽の信心というと、結局私の信心と言う事になる訳ですけれども。
私の信心がどちらかというと桜の花の信心。根っからの商売人でもありますし、生涯商人で終わるはずであったのが、どう間違ったのかお道の教師にお取立を頂いて、自他共に私も助かる私一家も助かる。またそれに縁あって結ばれて行く人達が次々と助かって行く。結ばれて行くと言う事も、これは水と油とでは繋がる事が出来ない様に、一緒になる事が出来ないように、神様は私を中心としてのここはお教会ですから、矢張り私と同類項、私と同じ様なものを内容に持っておる。
そういう人達が集うて来る、でなかったら助からない。ですから私が桜の花的な性格を持っておるとするならば、ここに集うて見えられる一人一人を、自分で思うて見てご覧なさい。梅の花の信心よりも、桜の花的なものを濃厚に持っておると言う事を、まず知らなければいけません。ですから実に華やかですここのおかげは。私共もかって聞いた事もない程に華やかです、おかげの現れ方でも。例えば月次祭なら月次祭を、一つ拝ませて頂きましてもです実に華やかです。
だから華やかである事が行けないのではないのです。誰だって実際は願っているんです。沢山なお参りもそれこそ、きらびやかに一杯な人達が集まって来る。お供えもそれこそ御神前いっぱいに、桜の花がそれこそ満開になったかと思われるような、お供えが勿論お三宝にうず高くですけれども、大盛りにいっぱいこの御神前が、お供え物で埋まるような様子などというものは、やはり桜の花的おかげだと思います。だから桜の花的なおかげと言うのがいけないのではない。それは実を言うたら皆が願っておるのだ。
ところがここにも仰っておられるように、桜の花は散りやすい。早く散ると言うのである。そこで私共がそれを散らせてはならんのですから、私に欠けておる梅の花的な信心が欠けておると言う所にです。梅の花と言えば長う苦労しておるからと仰る様に、修行をいとわない。ここが投げ出したいごとあっても、ここが自分の欠けておる所だと思うておりますから、泣く泣くでもそこを辛抱する。いうなら自分に欠けておるものを、私が知っておる。合楽のおかげの理想郷とでも申しましょうか。
梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい。この位見事に合楽の信心を表現した、これは歌の文句ですけども、ないと思う位です。梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい。私は桜の花的なものは、自分の自前で持っておる。合楽に御神縁を頂いておる方達は、先ずみんな桜の的なものだと知らなければいけない。ですから皆さんの信心が、少し熱を加えてくると、おかげの方が桜の花の咲いたようなおかげに、必ずなっくるです。だからおかげに酔うてはならない。
そこで私共がわからせて頂かなきゃならん。いわゆる自分に欠けておるというものはです、梅の花的な信心が欠けておる。辛抱力に欠けておる。欠けておる事が自分でわかっておるからです。わからなかったら桜の花だけになってしまいましょう。自分に欠けておるものを知っておるから、ここが梅の花の信心だな、ここが耐えなければならないとこだなという。それこそ泣く泣くでも辛抱し抜かせて貰うという信心が桜の花に伴う。その上にです、しだれ柳と言う事は風に逆らわないという。
神様任せとここでは言われておる、素直な信心と言う事です。これは私も大体生まれつき人間が、ふうたら温くう出来ておりますから、素直というのじゃないかも知れませんけども、嫌と言いきらん性分です。金はなかったっちゃ金貸してくれと言われりゃ、嫌と言いきらん。昔からそげんでした。こげな事では儲け出しきらんと、自分で思う位でした。それが段々長ずるに従ってです、そのふうたら温くさというものは、愈々度を加えた感じが致しますけれども。
一度それが信心に向けられた時に、神様と私との交流が段々深くなって、神様から色々お指図を頂くようになった時にです。私がもしそのふうたら温くさがなかったら、そげな事は出来ませんというて、私が断ったに違いないです。それこそ本当にお話をするならば、人がびっくりする様な事にでも、神様が右と仰りゃハイと言うて、ハイと言えたという事なんだ。だからここでは「ハイ」、それを素直とこういう事。
だからこれも例えばこれは、皆さんの物ではないかもしれんけれども、ここの信心の御流儀の様に親先生任せという事を言う。月末に支払いの金が纏まって要る。高橋さんの事です。銀行を当てにしとった所が、年度末で銀行が出さないと言う。さあどうしてよいやらわからない。手の打ちようがない。と言うて打たなきゃいけない。どうとかしなければいけない。昨日一昨日でしたか、旗崎の共励会。だからバタバタしたって仕方がない。今日は朝から一つこちらにおりなさい。
旗崎の信徒会にでも出らせて頂きなさいと言う事です。親先生そんな訳には行きません。あなた私が動かなきゃと言うてもよい所にですけれども、そこは日頃稽古です。親先生任せになると言う事です。私はその事のお取次をさせて頂きよったら、面白い表現で頂いたです。越中褌をはいとるとキンタマが、両方からぶらっと出とる所を頂いたです。だから、はぁこれは金が出ると思うた。(一同大笑い)この神様は面白い表現でです、そげん下さる事があるんですよ。
だから翌る日の竹葉会には、その事を皆さんに聞いて頂いた。皆大笑いしながらも成程と言うて、みんなが合点するわけです。でなかったらそういう切羽詰まっておる時に、そういう大事な日にです。私が自信を持ってその事は放うからかしときなさいと。今日は教会の御用に一生懸命、朝から信徒会ども行きなさいと言う事は言えませんよね。おかげで金が出た。と言う様に合楽では皆さんが、親先生まかせとい右事を、神様任せとい右事は、親先生任せになる事だと言う風にです。
それを私は素直だと思うのですけれども。そういう理想の信心を目指し理想のおかげを目指させて頂いてです。貧争病のない世界しかもそれが、真善美に輝く世界に繋がって行くおかげを、銘々が頂いてもらわなければならないというのが、私の皆さんにかけておる願いなんです。だから合楽に御神縁を頂く人達は、皆一つ億万長者になってもらわなければいけない。あの世にも持って行け、この世にも残しておけれる徳を頂いてもらわにゃならん。だから桜の花と柳の信心は。
まあまあ合楽の方達は、出来ておる感じですけれども、肝心の梅の花の信心に性格的に欠けておる人達が、合楽では私を中心に、結局類は類をもって集まるという理の元にです、そいう人達が集まっておるんだと。そこで皆さんがここに自覚しなければならない事をです、私には梅の花の信心が欠けておるんだ。信心辛抱の大事なところの信心が欠けておるんだと、自分に言い聞かせておりますから。
ここが一信心という時にです。それこそ泣く泣くでも辛抱させて頂いて、信心辛抱の徳を身につけて行くのですから、合楽の信心は完璧だと思います。完璧というと語弊がありましょうけれども。そういう完璧な信心を目指して行くと言う事なんだ。「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい。」そういう願いのもとに、お互いが信心の稽古をさせて頂いておると言う事になります。
昨日は合楽の野口つぁんのお宅の、年に一回の恒例の宅祭りでした。皆さんも御承知のように、あちらのお母さんという方は、それこそ熱烈な信心をしてました。御用の為に生れて来た人の様に、御用精神の旺盛な方でした。それこそ女ながらも大変な勢いの信心をもって、子供達にも全部信心を伝えて、その代わりに本当に普通の者では通り切らないごたる所も通ってこられた。信心の初めの頃はそれこそ、家を追い立てられて、愈々今日は一家中が寝るところがないと言う様な所も通られた。
久留米の駅でしばらくジーッと夜空を眺めながら、今晩はどこにみんな休ませて貰うだろうかといった様な所も通られた。それでも一つ一つを御神意を伺うて、親先生任せのおかげを頂いて段々おかげを頂いた。子供達もみんな信心をさせて頂くようになり、一家を挙げて信心する様になり、本当にこのまま素晴らしいおかげが、それこそ桜の花が咲く様なおかげになって行くかに見えた。所がどうですかそういう家の信心の芯である所の野口つぁんが、あっという間に交通事故で亡くなられた。
それこそ皆がびっくり仰天しました。本当に神様をお恨み申し上げたいごたる事でした。しかも信心のあれだけの信心が出来ておられるのに、どうしてと思わなければおられないような事でありました。昨日私は一日、昨日はそれこそ終日お使いまわしを頂いて、昨日九時まで、ここで御用をさせて頂いた。それからお食事をして十時過ぎから、親教会親先生の五十日祭でしたから、善導寺におかげを頂いた。帰らせて頂いたら敬神会の方達が待ちうけておられた。
だからお風呂を頂いて、野口つぁんの所に行く用意をしてから、敬神会の方達の所で呼びに見えるまで、五時頃までお話させて頂いた。そして野口つぁんの所の宅祭にやらして頂いた。ここで只今から、野口つぁんの所に、おかげを頂くというお届けを神様にさせて頂きましたら、今の応接室に高い見事な洋蘭を頂いておるんです。花がいっぱい満開してます。その一本の洋蘭をプツッと切った所を頂いたんです。
どうした事だろうかと思いよった。そして私が驚いた事は、野口つぁん所の御神前に出らせて頂いたら、御神前にたった一本の洋蘭を見事に活けてあったです。根の方に真っ白なカラ-という花がありましょうそれが二本。そしてその周囲に緑の杉とも松ともつかんような木があります。それを一杯根にあしらってあるという。たった一本の洋蘭ですけれども、それで形が出来ておると言う様に見事な花がお供えしてございました。
ははぁ私が頂いた洋蘭。ここで一本プッと切ったのは、あの花がここへ来とったなぁと私が思うたです。そして私が頂きます事がです、いつも花言葉ではないですけれども、花を、蘭というのはわからんという事。カラ-というのはあちらの野口つぁんのお母さんが亡くなったと言う事真っ白の花ですから。それから杉とも松ともつかんというのは、杉とも見松とも見るという風に私は見せて頂いた。杉といえば淋しいという表現であり、松と言うのは賑やかい、目出度いという表現である。
それこそどんなに考えてみても考えてみてもわからん。どういうわけにあちらのお父さんでいうならば、どういうわけにあれだけ熱心な信心しよって家内が、ああいう交通事故にあって、アッという間に亡くならねばならない様な事が出来たのか、起こったのか分からない。けれどもわからんながらも、信心をそれこそ泣く泣くでも今日まで、もう二年になりますか、続けておられると言う事なのです。
今だってわからんです。親戚の野口つぁんのお姉さんが見えて、こちらから御用に行っとった方達に、本当に妹の事を思うと、どうしてこう言う事になったかわからんち言うてから、一生懸命に光橋先生達に話よんなさった。そしたら御理解がそういう御理解でしたから、だから実際に私共が信心させて頂いて解らん事の方が多いのです。ここまでは私がわかっておると言う所を、皆さんに聞いて頂くので是から先の分からん所は、まぁだどれだけあるか解らんです。私も解らんです。
だからそれが簡単にわかるごたる神様なら、仕方もない神様ですよ。どこまであるか解らない、その深い広さというものがです。それは神様の御都合と言えばそれまでです。それはめぐりのお取り祓いといえばそれまでです。これはまだ信心が足りんからと言うて行きゃ、そこからおかげが受けられるというから、信心が足らなかったのですといえば、それまでですけれども、それだけでは割り切れないものがあるお互いが。
私の弟が七年間兵隊に行っておりました。そして終戦の年の七月三十日に戦死致しております。どんなに考えても一家をあげて神様に縋り願ったのは、どうぞ無事の凱旋をと願ったわけなんです。それがしかももう十五日お生かし頂いておりゃ、無事凱旋が出来たのにです。終戦十五日前に戦死しなければならないという事は、神様どう言う事ですかというわけなんです。解らんけれども私はその事の公報を受けたその月から、御本部月参りをいたしております。
そして何十年後にわからせて頂いておることはです。一家が目の前が真っ暗うなる思いをしたけれどもです。その為に私共が解らん解らんなりにも、一生懸命神様に打ち向かわせて頂いておったらです。この様に人が助かる様にまでなって来た。三十年後に今日の合楽の御比礼というものがです。いうならば弟のそういう解らなかったけれども、ようやく今、解らせて頂く事は、もし弟が無事に凱旋して来とったら、今日の合楽は開けとらんです。絶対に開けてない。
それを思うただけでも御神意、御神慮の深さと言う事は、私共には計り知る事は出来ないです。そこん所が解らん、どんなに考えても解らん。あれほど熱心な信心をしよった家内が、どういうわけでああいう交通事故で亡くならなければ成らない様な事になったのか。けれども解らん。それこそ泣く泣くでも信心が進められてきた。信心が続けられてきた。私は昨日あちらの二階が何十畳でしょうか。
広い見事な神様と霊神様がお祀りしてございますが。それこそ桜の花が一遍に御広前に咲いたかと言う様な、大変なお供えがしかも最高のものばかりをです。ようもあれだけ集まったという位な、それこそ桜の花が御広前いっぱいに咲いたようなお供えでした。御神前だけでなくて大盛りが。しかもその一つ一つがです、最高級のものばっかりでした。お供えしてある。成程桜の花の信心だなと思うです。その桜の花の信心に野口つぁんの場合は、解らんなりにもです、私は昨日その事を聞いてもろうた。
昔江戸時代に加賀の千代という、俳句を作る女流の名人がおられた。少女時代にある有名な先生に弟子入りを頼まれた。試験があったどういう試験かと言うと、ホトトギスという季題で一つ句を作ってみろと言われた。考えても考えても解らない。とうとう夜が明けて白々と明こうなってきた時 ホッと自分の心の上にです俳句が出来なかった。けれども只ホトトギスホトトギスで明けにけりか何かと言った様な句を作ったと言う事です。一晩中ホトトギス、ホトトギスで考え続けたけれども良い句が出来なかった。
もう白々と夜が明けだした。その事の実感をですホトトギス、ホトトギスで夜が明け初めたとか、明けにけりとか言う事でした。けれども野口さんの場合がそうです。解らんどんなに考えても解らん。家内がどう言う訳にお国替えのおかげを頂かなければならなかった事が分らんけれども、泣く泣くでも信心辛抱し続けさせて頂いておったら、子供達がおかげを頂いて来た不思議な事になってきた。いうならばですあちらのお家に行ってから、本当に真善美が足ろうてきておるなと思う程しにおかげを受けてきておられる。
加賀の千代がわからん。ホトトギスホトトギスで夜が明けた。それが師匠の気に入って弟子入りをして、そして今に俳句の女流名人として名が残る。有名な句に「朝顔につるべ取られて貰い水」と言った様な句があります。そういう素晴らしい句が出来ようになってきた。野口つぁんの場合でも解らん。解らんけれども、泣く泣くでも信心辛抱しておるうちに、信心の手が段々上がっていく。又上がっていかなければならない。いつまでも幼稚園じゃ出来ん。小学校にもなって中学校にも進んで行かなきゃならん。
解らんけれどもです、私はそいうおかげを辿って行かなければならないと言う様なお話を、夕べ聞いて貰ったわけですけれども。確かに野口つぁん所に行って思う事はです、部屋の調度品一つから思うてみてもです。お茶でも応接間で頂き、それから座敷の方で年に一回じゃけんで、手をかけるだけかけたっちゃよかたいの、それから座敷で又席を変えて、新たなお茶を頂こうかというて、一時間余り時間があります、その間もう本当に贅を尽くしたおもてなしを受けたわけですけれどもです。
そう言う事が出来れると言う事なんです。如何にもそれは桜の花が咲いたような感である。その桜の花のおかげを頂きながらです、泣く泣く信心辛抱解らん、解らんけれどもここが辛抱のし所と思うておられるかどうか解らんけれども、信心辛抱が出来ておられてです。梅の花の信心がそれに伴うてきたと言う所に、これからの野口つぁんのお家にそれこそ、梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたいと言う様な、合楽で言われておる、一つの理想のおかげが頂ける。そういうお徳が受けられると私は思います。
まずは私共がです先ずは皆さんは、とにかく桜の花的な物は違う、持ち合わせておられるに違いはない。でなかったら合楽に縁がないはずです。縁が切れるはずです。同類項です私と。同じものを持っておられるです。同質なものをですから、皆さんが熱心になられるなら、絶対桜の花的なおかげを受けられるです。けれどもおかげは受けたけれども、パッと散ってしまうという人が。
ここ三十年の間にどの位あったか分からないです。本当に見事な桜の花が咲く様なおかげを頂きながら。それは梅の花の信心が欠げておったからです。ですから梅の花の信心が、自分には欠けておるのだ。自分にこういうものが欠けておるんだと言う事を承知する事。認識する事。そして、ここはという時には、ここが自分に欠けておるんだと、泣く泣くでも辛抱し抜かせて頂く様な信心させて頂く所から。
いうならば足ろうた信心、足ろうおかげというおかげが約束されるわけであります。桜の花の信心より梅の花の信心をせよと。桜の花の信心がいけないとおっしゃとるのじゃないです。それがパッと咲いてパッと散ると言った様な事ではいけないのであって、パッと咲くほどしのおかげは、皆が乞い願っておる所なのです。ですからそれを持続させるところに、梅の香りというか梅の花の信心を、私共が本気で身につけさせて頂いて、おかげを頂いて行かねばいけんと思います。
どうぞ。